Heavy Love

愛しすぎると、愛は重くなる。
相手も同様の重みで自分を愛してくれるとは限らない。
自分にとっては真剣な想いでも、相手が重過ぎると感じる愛は、
暑苦しく、持て余しがちな、迷惑な愛となってしまう。

だから愛しすぎはよくないのかもしれない。
よく言うではないですか、
ほどほどが良い。
中庸を心がけよ。

だが私は誰かを好きになると、好きで好きで堪らなくなってしまう。
相手の迷惑にならないようにと行動しつつ、
自分の燃えたぎるような愛も尊重しようとする。

愛とは、その体重において、平素は身軽であるべきだ。
いざ、ここぞの時に、ずんと重くなればよい。
普段から重い愛は邪魔だ。
手で払いのけたくなる。

難しいのが、重さの感じ方が相対的でしかも変化することだ。
自分にはなんともない愛し方が、実は相手にとっては負担
かもしれない。
もしくは、重くなることを恐れてほどほどに接していると、
「物足りない」と宣告されるかもしれないが、
それならばと次回はもっと力強く愛したら、
「今日はそんな気分じゃない」と拒否されるかもしれない。

体重の掛け具合が難しいのだ。
どこまで踏み込んで愛せば、愛は重くなるのか、その境界が不明瞭で。

私の出した結論は、
不断のコミュニケーション。
愛が重くないかどうか、常に相手に訊ねるのである。

恋愛巧者に言わせればそれは愚かな行為だろう。
言葉に出さずして、それとなく悟ってしまうのが、
本当の愛なのだ、と。

しかし私は不器用だし、
何も訊ねず愛が重くなり過ぎた結果、その愛を失ってしまうことが怖い。

Published in: on 7月 24, 2006 at 1:33 pm  Comments (1)  

inconvenient love

愛にはおまけが付いてくる。

ただ愛しているわけにはいかない場合がある。

お互いの家族の許しがないために、思うように逢えない恋人もいるし。

国境を跨いでいるがため、文化や制度の差異に振り回される愛もある。

うざったいが、切り離せない。

たとえば結婚すれば、子供ができる可能性が高い。

そうしたら養育費やら、どっちが働くかとか、誰が育てるかだとか、

世間体とかを気にしなきゃいけない。

心の底から面倒だ。

しかしだ、それをちゃんと解決することができなければ、愛はままならない。現実的には、そういったことをしなければ、円滑な生活が送れず、結果として2人は破局してしまうかもしれない。

愛だけじゃだめなのである。

でも。

私は勘違いをしたくはない。

「愛」それ自体が面倒なわけではないのだ。

愛に付随する「おまけ」が面倒だという、それだけなのだ。

ただ愛し合っていればいい状況に持っていくために、私は世間体を気にし、諸手続も行う。

愛、それだけを見つめるための、環境作りである。

「面倒なおまけ」は、愛の一部ではない。

愛の周辺だ。

それを決して勘違いしちゃいけない。

勘違いすれば、愛と面倒を取り違える。それは私の望むところではない。

Published in: on 7月 16, 2006 at 2:48 pm  コメントする  

love&sex

愛に絶対に必要かと問われれば、そうではないと答える。
じゃあなくてもいいのかと問われれば、いやそうでもないと答えるだろう。
とにかくあやふやな位置にいるのだ、SEXというやつは。

SEXが愛と親和性があるのは確かだ。
「一緒にいたい」のベクトルのひとつが向かう先は「結婚」だが、
もうひとつの行き先として、「くっつきたい」がある。

男性はSEXと愛を別に考えるが、女性は一緒に考える、と言われている。
この点は個人差もあるだろうし、議論の余地もある。
こうした前置きをして、さらに、私の場合は、と断ってから言うが、
私は、愛にSEXは必要だと思っている。

愛にはどこかあやふやな部分があって、
有るんだか無いんだか判別しにくい。
だからそれを確かめるための作業だと私は思っている。

肌を触れ合えば、
金属が触れ合うと電流を通すように、
愛がお互いを自由に出入りできる気がする。

言葉をいくつ重ねても、体の重なりにはかなわない部分もあるのじゃないか。

直接、
そう、直接に、触れ合うことのできる愛を求めること。

言葉よりも感じやすい、吐息のかたちをとって伝わる愛。
指先の温もりに宿り、背をつたう汗にとろける愛。

言葉より、行動より、SEXは愛をよく通す。
肌は愛の伝導率が高いのだと、思う。

手垢のついた言葉はまことに正しく、SEXとは、愛を確かめる行為だ。

Published in: on 6月 6, 2006 at 10:34 pm  コメントする  

love & marriage

男性が働き、女性は家庭に入る。
それが世間でいう「当たり前」だとしても、私は絶対に認めない。
なぜなら愛に自由がないからである。

夫を好きではなくなっても、経済力がないために、妻は離婚することができない。
それはよろしくない。
男女同権に対するフェアとかアンフェアとかいう問題ではなくて、
「好きでもないのに一緒にいる」状況が発生するからよろしくない。

単純な話である。
好きだから一緒にいたい。
結婚とはつまるところ、それだけであるべきだ。
一緒にいたい、という欲求の究極が、たまたま結婚という形式であるだけだ。

結婚と愛は別物だとする意見も聞かれる。
だが私はそんな話はしていない。したくもない。
私がしたいのは、愛ゆえに結婚し生活をともにするようになった2人が、
結婚それゆえに、愛のない生活を続けざるを得なくなる不幸を語ることだ。
的外れな茶々は入れないで欲しい。

共働きの2人が結婚すれば、好きなときに離婚できる。
愛のない結婚生活を阻止する有効策になる。

仮にある一組の夫婦がいたとしよう。
愛が枯れてしまったと感じている妻の心中はこうかもしれない。

いまはもう愛していないけど、
一緒にいればまた愛せるようになるかもしれないじゃない。
それに別に悪い人じゃないんだし、生活は安定していて不満もないし、
愛がなくたっていいじゃない。
結婚とはそうゆうものよ。

こんな結論が導き出されないとも限らない。
それは私の思うところの愛とは違う。
結婚ゆえの愛だ。
利害づくめの愛だ。
それでいいのかもしれないが、私にはそれではよくない。
愛されていないかもしれないのに、形だけの結婚生活を送るのは、愛を軽んじる行為ととる。

結婚するなら、愛だけで結びつきたい。
だからこそ共働きでないと困るのだ。
経済的に依存のない結婚は、愛し合っているから一緒にいるのだという安心感を高めてくれる。

好きだから一緒にいたい。
結婚とはつまるところ、それだけであるべきだ。

Published in: on 6月 5, 2006 at 4:18 pm  コメントする  

love

なぜ人は愛し合うのだろうか。
どうして愛さずにはいられないのか。

それは心理学的にも、社会学的にも、生物学的にも説明可能だろう。
ただ、私は、そんな格式ばった答えを望んでいるわけではないのだ。
原因があり、結果がある、そういった因果の関係などどうでもよろしい。

一点。
人を愛せずにはいられないこの衝動を、
あきれるほどに見つめなおしてみたいのだ。
私は純粋に人を愛せているのか、確かめてみたい。

見返りを求めるから相手に尽くすのか、
見返りを求めずただ愛しているのか。
たとえばそうゆうたぐいの問いを、無数に、自らに浴びせかけたい。

それでも依然、ごろり、転がっているものがあるとすれば、それが愛だ。
存在するために、他の存在を必要としない、
愛しているから愛している、
愛ゆえの愛。
それこそが愛だ。

しかし、それのみが本当の愛だとは言い切れない。
利害の起伏に沿って存在するしかなかった、
しがらみに巻かれた愛を否定することはばかげているからだ。
つらい状況でも何とかして愛し合う愛には、喝采を送るし、嫉妬心さえ抱く。

ここで追求するのは、あくまで私の理想である。

自分流に愛の余剰を剥いでいったら、
あとに残る愛はどんな色・つや・かたちをしているのか、それが知りたくてたまらないのである。

Published in: on 6月 5, 2006 at 3:47 pm  コメントする